何度か訪れた湖で子供達と一緒に釣をする事を思い描いていた。
水辺から眺める景色から感じる事があった。
僕が幼かった頃に見た夏の空と深緑との境界線。
無数の生命の音に溢れた森。
水はゆったりと、静かに夏の陽光をキラキラと反射している。
あの時、僕は何を考え、どんな事に関心があったのか。
今思い出すのは夏の色と蝉しぐれ、そして少し息苦しくなるような胸のざわつきだけである。
子供達は僕がそうやって過ごした幼少時代に突入しようとしている。
大人になってから、ふとフラッシュバックするような原体験の記憶の片隅に
僕の姿があって欲しいと願う。
明日は5時半に起こすからなと長男に告げると、次男も絶対に行くと一丁前の口をきく。
翌朝になってみれば、次男の想いは確かなものであったらしく
長男よりもすっと起き出すのだから、大人が凝り固まった勝手な判断で
決めつけてはならないのだと教えられた。
早朝から森は生命の音で賑やかであるが、それはただ実際に耳に届く音であり、
僕の感じるこの場所はいつも静かで穏やかだ。
学生時代に少しだけかじったバス釣りのロッドとスプーンワレットを長男に手渡した。
これは君の釣り道具だから、自分で責任を持って管理するんだと伝えた。
なかなか思うように飛ばず、手前でポチャリポチャリと力なくスプーンが水に沈んで行く。
どこまで見ていて、どこから口を出せばいいのか判断に迷う事がある。
今回だってそうだ。
ここでこうやるんだと、口を出すのは簡単な解決策であるが、
なんで思うように飛ばないのか、どうしたら少しでも先へ飛ばせるのか、
色々と考えて、試しながら、その次のステップへ進むまでのプロセスが大切なんだとは思うものの、
果たしてそこまでする事の意味があるのかどうか、とも考える。
いまいち自分の考えが定まらないまま、結局は口を出す事にした。
そして、一旦僕が口を開くと、細かい事まで言ってしまう。
全く同じだ。
幼い頃にはよく父親にスキーに連れて行ってもらった。
一旦滑り出すと、その指導は非常に細かかった。
結局、僕は途中で嫌気がさして滑りはするものの、幼なながらに
反発して真面目にやらなかった。
そんな時、決まって言われた事がある。
やりたくないなら帰るか、と。
父は物事に対して真面目であり、ただ純粋に教えたいという想いであったから、
特に厳しくしようなどとは思っていなかった。
子供との接し方が下手だったんだと思う。
そして、僕が父親になってみれば、結局のところ同じなのだ。
しかし、今回は最後の言葉をグッと飲み込んだ。

次第にルアーの飛距離も伸び、最初とは見違える程に短時間で成長した。
彼のルアーで釣り上げる事は出来なかったが、一つの事を少しだけ乗り越えられたという
達成感は自信に繋がったはずだ。
そんな彼を横目に、次男を後ろから抱えながら小バスと戯れる。

今日もここの小バスは活性が良く、釣れる度に2人を呼んでは、釣れた釣れたと3人で騒ぐ。
僕もまるで子供である。



そのうちに子供らは魚釣に飽き、ザリガニを見つけたと木の棒を探し出してきて
こっちの釣に夢中になった。
ティペットにザリガニが掴める大きさのフライを結ぶと、面白いように釣れた。
おかげで残り少ないウーリーバガーはぼろぼろになってしまったが。
彼らのはしゃぐ姿を見て、そうそうコレでいいんだと思った。

当時と今とでは、社会を取り巻く環境が大きく変わった。
しかし、少なくともこうして今眺めている夏空は当時のそれと一見変わらない。
彼らが大人になった時、その先の世代が眺める空も同じ夏空であることを願う。
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- 2013/07/29(月) 23:45:57|
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